元弘3年(1333年)5月21日の夜半、北条討伐軍の大将・新田義貞は鎌倉になだれ込む。
翌22日、鎌倉幕府の第14代執権で、幕府の実権を握っていた北条高時が、鎌倉の東勝寺で自害する。
北条一族の283人を加えた870人余りが、この場で果てたとのこと。
高時は、家の再興を願い、子どもを落ち延びさせていた。
しかし、嫡子・邦時は、伯父・五大院宗繁の裏切りにあい、28日の明け方に相模川で渡し船を待っていたところを捕えられ、鎌倉にて処刑される。
鎌倉から伊豆に向かって逃れていたということで、茅ヶ崎側だったものと思われます。
出典:「平塚市史 9」他